2020-10-29 第203回国会 参議院 本会議 第2号
さて、一九四九年の日本学術会議の発会式において、当時の吉田茂内閣総理大臣は、祝辞で、日本学術会議はもちろん国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのでありますと述べられています。
さて、一九四九年の日本学術会議の発会式において、当時の吉田茂内閣総理大臣は、祝辞で、日本学術会議はもちろん国の機関ではありますが、その使命達成のためには、時々の政治的便宜のための制肘を受けることのないよう、高度の自主性が与えられておるのでありますと述べられています。
いずれも吉田茂内閣のときであり、国会が混乱する中、とりわけ衆議院の与党内の対立が激しくなる中、抜き打ち解散、ばかやろう解散などと称される衆院の解散の後に参議院の緊急集会が召集されております。 驚くべきことに、例えば予算については、憲法六十条第一項において、「予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。」
その吉田茂内閣においても、例えば警察予備隊が創設されるときに、日本を守る自衛権までも放棄をしていた四六年見解から変えまして、自分たちは国を守る権利というものを有しているんだということで、そのときの政局によって変わっているということはもちろん御存じだというふうに思います。 ところで、先ほど公述人がおっしゃったんですが、自衛隊は違憲だとお考えになっていらっしゃるんですか。
少し過去の経緯を振り返りますと、憲法改正手続に関する法整備については、昭和二十七年から二十八年にかけまして、吉田茂内閣当時の自治庁、現在の総務省でありますが、自治庁において具体的な法案が検討、作成されたという記録が残っているようでございます。ただ、閣議決定の段階になり、内閣が憲法改正の意図を持っていると誤解されるとの理由から、国会提出が見送りになったというふうに言われております。
それで次、麻生総理の岳父というか義理のお父さんである鈴木善幸内閣、それから、おじいさんである吉田茂内閣をちょっと見比べていただきたいんです。 まず鈴木善幸内閣、二十一名のうち東京近県とかいうのはたった四名でした。二世、三世は三名。ただ、ここがおもしろいんです。このときの閣僚の方の御子息で国会議員になっている方が十一名もおられるんです。石破二朗さんと中曽根康弘さんは御子息が今閣僚入りしている。
そうした厳しい占領下にあっても、昭和二十年十一月二十日には幣原総理が参拝されておりますが、昭和二十六年九月八日、サンフランシスコ講和条約が調印され、麻生総理の祖父であられる吉田茂内閣総理大臣は、この日を待ちかねていたかのように、十月十八日、靖国神社秋の例大祭に公式参拝され、新聞各紙も写真入りで極めて好意的に報道しております。
ということになっておりまして、しかも昭和二十七年に作られました統計報告調整法もこの中に取り込むということですから、大変大規模な改革だというふうに思うわけでございますけれども、内閣府の経済社会統計整備推進委員会というところが平成十七年の六月十日に政府統計の構造改革に向けてという報告書を出しておられますが、私、いただいた参考資料の中にそれが入っておりましたので読ませていただきましたところ、その冒頭のところに、昭和二十四年に吉田茂内閣総理大臣
ですから、それをちゃんと知っていた吉田茂さん、第一次吉田茂内閣で大蔵大臣に抜てきする。ところが、アメリカの言うことを聞かないから、なぜかしら公職追放になる。その後、どういう思想、哲学の変遷があったのかわかりませんけれども、公職追放解除になった後は、鳩山自由党の方に参加されて、反吉田になっていくわけですけれども、しかし意思は通じていたんじゃないかと思います。 それで、では今度、右に移ります。
そういう意味で、今の憲法が有事を想定していなかった、そしてまた、当時の吉田茂内閣総理大臣の国会での発言を聞いていれば、自衛権そのものを制約していたということで、しかし、それが時代とともに解釈が変更されていったということでございますけれども。
そして、吉田茂内閣が発足したのは五月二十二日であります。実に一カ月余りも政治の空白期間があったわけであります。 一方、当時の国民はといえば、食糧の遅配が深刻で、各地で米よこせのデモが行われるなど、混乱が続いておりました。当時の混乱した状況を示す一つの資料を紹介しておきます。これは、五月の九日に内務省の警保局が作成した資料であります。少し読ませていただきます。 食糧は正に危機寸前である。
そのときに私は思い出しますのが、吉田茂内閣のもとで、いわゆるアメリカが仁川沖に上陸するためにアメリカから掃海艇を持っていくのにはペルシャ湾に持っていくぐらいの時間がかかるわけです、一カ月以上かかる。そこで吉田茂総理のときに、あのときは海上保安庁でございます、運輸省でございますけれども、自衛隊はなかった、海上自衛隊もなかった。しかし、戦後日本の周辺に機雷等がいろいろ残っておりました。
(拍手) この際、我々は、憲法制定の原点に立ち返り、昭和二十一年五月十六日召集された第九十回帝国議会において、吉田茂内閣総理大臣がこの壇上、この場所において、憲法第九条について「一切ノ軍備ト国ノ交戦権ヲ認メナイ結果、自衛権ノ発動トシテノ戦争モ、又交戦権モ抛棄シタモノデアリマス、従来近年ノ戦争ハ多ク自衛権ノ名ニ於テ戦ハレタノデアリマス、満州事変然リ、大東亜戦争亦然リデアリマス、」「故二我ガ国ニ於テハ
ちょうど昭和二十八年は吉田茂内閣でございまして、第十六国会、今回が第八十四回でございますから、差し引きますと六十九回の国会を経験することになります。
○小笠原二三男君 あなたに言っても、それは無理なことですけれども、二十六年、吉田茂内閣時代から、内閣が何世代か変っておる。その間大いに考究、検討せられて、なお意見の調整ができないということは、結局、各省のなわ張り争い、権限争いを企画庁としては調整しかねた。力がなかったんだということなんですか。
それはどうしてかと申しますと村上さん、二十八年の二月十三日に向井大蔵大臣が吉田茂内閣総理大臣に、社会保険診療報酬については、関係各省においてすみやかに根本的な検討を加えるものとする、なおこの場合要すれば臨時医療保険審議会その他の民間の公正な意見を徴するものとすると、あなたの方の大蔵大臣が言っておるわけです。厚生省の方にもそれを言ったら、今大蔵省とたびたび話し合っております。